お寺

西福寺について

○由縁

 正式には東光山(とうこうざん)(りょう)雲院(うんいん)松平(まつだいら)西福寺(さいふくじ)といい、慶長(1595年~1623年)の頃、加藤忠広公ご内室(正室)が、江戸の松平西福寺より招いた釋譽上人によって開かれました。            

ご内室は徳川家康公の孫姫で、蒲生秀行公(蒲生氏郷と織田信長娘、冬姫の嫡子)の娘。祖父家康公のおはからいにより、肥後54万石加藤家・忠広公にお輿入れされます。ご内室はその徳川家康公・秀忠公・蒲生秀行公をはじめ、徳川家・蒲生家・加藤家の菩提を弔うために50石を寄進されこの西福寺を建てました。現存の本尊は、ご内室の熊本城内佛の阿弥陀座像を元和九年に譲り受けたものです。 

 その後、肥後藩主、細川家七代 宗孝候の母君・映心院殿が入国されると当山を菩提所と定められました。現に、映心院殿様をはじめ、三男光含院様・七女臨泉院様、また十四代護久候の母君、十五代護成候の母君ほか諸名家の葬儀を行い、その墓所があります。

平成3年の台風により甚大な被害を受けた本堂は、10年の歳月をかけ、平成12年に400年前の本堂に再建されました。材木は総て欅(ケヤキ)が使われており、参詣者をあたたかく迎えています。

 ○仏像 

阿弥陀如来像(熊本城本丸より寄進) 

 

十一面観世音菩薩(観音さま)  

   

放牛地蔵    九十体目

○史蹟

庚申塔  九州内最古。全国七番目に古い塔で、学術的に貴重な史蹟です

庚申塔(こうしんとう)
庚申塔とは庚申信仰によって造塔されたものです。

庚申信仰は61日目に一巡して来る庚申の日に、人の体の中に住む三尸虫が睡眠中に体から脱出して、その人の悪事を天帝に告げるというものです。場合によっては寿命が縮められるとあって、人々は夜を徹して祭祀をしました。普通グループで祀り、3年あるいは7年なり庚申待ちを行った後に庚申塔が造立されました。

西福寺の庚申塔は、高さ約135cm、底辺の幅68cm、最大幅74cm、厚さ11~14cmの自然石でできており、正面中央に阿弥陀三尊が線刻されています。三尊とも飛雲に乗り、向かって右方向への早来迎の姿です。弥陀は二重の円光背と短い線光背を頂き、上品下生の印相を示しています。この碑のように庚申構-結衆として三尊を刻むのは珍しい。
西福寺は慶長年間(1596~1614)に創建されましたが、この庚申塔は明応8(1499)年のものでここが加藤清正時代よりも古く、鹿子木氏の時代から開けていたと思われる。

井上大九郎の墓  加藤清正の重臣

清正公の重臣(鉄砲頭)で、大九郎が亡くなった10日後に加藤家は改易されました。

細川候廟所

細川七代宗孝候の生母。十四代護久候の生母。十五代護成候の生母。(映心院殿・ 光含院殿・臨泉院殿・興願院殿・慈雲院殿)                  

○矢野雪叟、良勝、良敬の墓   細川家おかかえの絵師。                                       ○自松軒首藤久喜麿の墓     肥後狂句の元祖                                                                                                 ○自松軒露好の墓        肥後狂句第二世  

○什物                                                                     ○黒印書      細川候代々の殿方からの寄進録                                           ○写経       細川清凉院殿の自筆(阿弥陀経 十無尽戒品)                                   ○挟箱       九曜金紋付 細川光会院殿寄進                                                   ○鎗        九曜金紋付 細川光含院殿寄進